翌日、幸いにして夕方のレッスンまで仕事はない。春花は荷物をまとめるためにアパートへ戻った。そろりと鍵を開けると、そこはもぬけの殻だ。あんなモラハラ高志だが、彼は仕事にはちゃんと行くことを春花は知っていた。仕事中の高志の態度は全く知らないが、きちんと出勤するということは最低限のルールは守っているのだろう。「……はぁ。本当に意味がわからない」なぜ自分が出ていかなければならないのか。考えれば考えるほど理不尽でたまらないが、高志とこれ以上争う気は微塵も起きなかった。しかも高志は合鍵を持っているのだ。我が物顔で彼が入り浸る家には、もういたくない。だが、新しい家を探すにも日数が必要だし、なによりまとまったお金がないと動けない。「はぁー」ため息しか出てこない。 考えると高志に貢いでばかりだった。大企業勤めで寮暮らしをしている高志は、お金がないわけないのにいつも金欠だと言っていた。入った給料はスロットで使い果たし、春花にプレゼントひとつしたことはない。幸い銀行のカードは財布の中、パスワードは教えていない。まずは自分の財産に安堵し、荷物の整理を始めた。元々そんなに私物は多くなく、荷物くらい簡単にまとめられると思っていた。だが、いざ整理し始めるとどうしたらいいかわからなくなる。荷物が少ないといっても、さすがにカバンひとつでどうにかなるものでもない。「どうしよう」一日ですべてをこなすのは無理だ。夕方からはレッスンが入っている。それを休むわけにはいかない。春花はその場にペタンと座り込み、荷物を前にして途方にくれた。
ポロ、ポロ……と涙が溢れ落ちた。泣きたいわけじゃない。ただ悔しくてやりきれない想いが春花の心をぐちゃぐちゃにする。電子ピアノをスタンドから降ろしてカバーを付けソフトケースに入れる。両親が離婚して引っ越しをする際、ピアノを売ることになったあのときの気持ちとよく似ている。今回ピアノは売らないが、突然訪れた出来事に頭がついていかない。喪失感が春花を支配し、理解することを拒絶しているようだ。――ブブブ、ブブブ、突然携帯電話が震え出し、春花はビクッと肩を揺らした。恐る恐る手に取ると画面には【桐谷静】と表示されており、春花は涙を拭ってからそっと通話ボタンをタップする。「……もしもし」『山名? 昨日イヤリング落としてないか? 楽屋の忘れ物で届けられてたみたいなんだけど』「え? あ、うん」『山名?』「うん」『泣いてる?』「……ううん」『嘘だ』「……桐谷くん」穏やかで優しい静の声は春花の耳にたおやかに響き、やがて体全体へ浸透していく。その安心できる声に、一度止まった涙が再び溢れ出した。『どうした?』「うっうっ、桐谷くんどうしたらいいか……」『……山名、今どこにいる?』静の声色が緊迫したものに変わる。静にこんな話をしていいものかと一瞬躊躇ったが、それよりも今は誰かに話を聞いて貰いたいことの方が気持ちが大きい。春花は泣きながら現状を伝え、事実を口にするたび悔しさが込み上げてきて時々嗚咽が漏れた。『山名、ゆっくりでいい、落ち着いて』耳に響くその声はしっとりと優しく、すがりたい衝動に駆られた。
どれくらい経った頃だろうか。ぼんやりとヘタりこんでいる春花の元に、静が息を切らしながらやってきたのは。「山名」名前を呼ばれて見上げれば、静が険しい顔で春花を覗き込む。「事情はだいたい理解した。まずは荷物を持って俺のところに避難しよう。ここは今月で契約解除すればいい」春花の腕を取って立ち上がらせようとするが、春花はフルフルと首を横に振る。「でもそうしたら高志が住めなくなる」「そんなの知ったことじゃないだろ? 今月末で退去の旨を知らせておくだけで十分だ。山名が責任を感じることはない。むしろ乗っ取られてるんだから訴えても良いくらいだ」「だけどこれは痴情のもつれというか」「山名」「夫婦喧嘩は犬をも食わないみたいな」「山名」「私がちゃんとしてなかったから」静がいくら呼び掛けても、自暴自棄になっている春花は答えようとしない。静はすうっと息を吸い込むと凛とした声で名前を呼んだ。「春花!」その声に、まるで時が止まったかのように静寂が訪れる。春花は目をぱちくりさせながら恐る恐る静に視線を合わせると、静はふと表情を緩めてから柔らかく春花を自分の胸に引き寄せた。「春花、落ち着け」「う、ううっ……」改めて名前を呼ばれ、春花の感情は大きく揺さぶられる。「昨日連絡先を聞いておいてよかったよ。春花は俺が守るから」静が抱きしめる腕の力が強まる。 暖かく包まれているうちに、春花の中にあった禍々しい感情がすっと落ち着いていくのがわかった。
静のマンションには防音設備の整ったピアノ専用の部屋がある。その他にも二部屋あり、荷物を置かせて貰うだけでもありがたいというのに、静は春花に一部屋使って良いと開け放した。初め遠慮した春花だったが、マンションは職場からさほど遠くない位置にあり通勤にも困らない。下手にリビングに居座るよりも自分の部屋で静かに過ごすことの方が迷惑にならないのではと考えて、春花は次の家が決まるまでありがたくここに住まわせてもらうことにした。「俺は夕方から外出するけど」「あ、私も夕方から仕事なの」「ん、じゃあこれ渡しておくよ」差し出された手を両手で受ける。と、固くてひんやりとした感触に目を疑った。「こ、これ……」「うん。鍵」「だ、ダメだよ」「どうして? 鍵がないと困るだろ」「でも……」「自由に使っていい。俺は仕事の時間がバラバラだから」そのまま握らされ、合鍵に良い思い出のない春花は戸惑いながらも大事に受け取る。無機質なモノなのに、やけに心が騒がしいのはなぜなのか。ぽっと灯る柔らかな温もりはゆっくりと浸透していくように、春花の心を包み込んでいった。夕方、レッスンのために出勤した春花を見た葉月は眉根を寄せ、手招きしつつ春花を呼びつけた。「ちょっと山名さん、何だか顔色悪いけど大丈夫?」指摘され、春花は頬を両手で押さえる。昨晩高志にアパートを追い出されビジネスホテルに泊まったわけなのだが、全くといっていいほど眠ることができなかった。今朝は朝食もそこそこにアパートへ戻り荷物の整理をしていたのだ。昼食もとっていないことに今更ながら気づく。「あ、ちょっとプライベートでいろいろあって。すみません、仕事に迷惑かけて」「別に迷惑はかけられてないけど。これからレッスンよね、大丈夫?」「それは大丈夫です。それより店長、今度レッスン風景を見学したい方がいまして」「体験レッスン? いつも通りやってくれて構わないわよ。」「あ、じゃなくて、見学したいのは桐谷静さんなんですけど」春花の言葉に、葉月は作業中の手を止める。改めて春花と目を合わせると、不思議そうに首を傾げた。「……え? 桐谷静ってピアニストのじゃないわよね?」「はい、そのピアニストの」「……え、山名さんとどういう関係なの?」「実は高校のときの同級生なんです」「やだっ! 何でそれを早く言わないのー? もしかして一曲
仕事が終わった春花は迷わず静のマンションへ帰った。渡された合鍵でエントランスの自動ドアを解除する。スッと音もなく開くドアは高級感に溢れており、エントランスの天井は高くクッション性の良さそうなソファーが優雅に出迎えてくれた。自分のアパートとは違う感覚は、春花の心を幾ばくか緊張させる。玄関のドアさえも重厚な造りで力を込めないと開かなかった。「た、ただいまぁ」遠慮がちに呼び掛けてみるも、部屋はしんと静まり返っていて人の気配はない。「お、お邪魔します」そろりそろりと入っていくと、ピアノルームの扉が開いていた。そっと中を覗くと自動で照明が点き、春花はわあっと声を上げた。部屋の真ん中に立派なグランドピアノが置いてある。照明が反射してキラキラと光っている様は、音楽室を彷彿とさせた。そっと蓋を開け鍵盤を弾くと、ポンと体の芯まで響いてくるような重厚な音が鳴った。「……トロイメライ」高校のとき静と連弾した曲を思い出し、春花は微笑む。まさかこんな形で静と再会するとは思っても見なかったが、昔と変わらない優しさは春花の心に安心感を与えている。本当は静と音大に行きたかった。静と一緒にピアノを弾きたかった。もしもあの時一緒に音大に進学できていたら、自分はどんな人生を歩んでいたのだろう。ピアノ講師としてかろうじてピアノは続けているが、静との実力は雲泥の差だ。
春花は何だか惨めな気分になり、泣きたくなった。と、突然携帯が鳴り出す。「もしもし?」『春花、何で出ていくんだ?』「高志……。あなたが出ていけって言ったじゃない」『そんなの嘘に決まってるだろ。春花を試したんだ。ああやって言えば春花は優しいから振り向いてくれると思った』何を言われても、高志の言葉は嘘にしか聞こえない。もう彼に振り回されるのはうんざりだ。「もうアパートの契約解除するから。あなたも出ていってね。私知らないから」『は? ちょっと待てお前何言ってんの? くそが、死ねよ』「もう私は死んだと思って。さよなら」春花は今まで出したことのない冷ややかな口調で告げ、乱暴に電話を切った。「はぁー」ほんの少し緊張が解け、その場にペタンとへたれこむ。手のひらから滑り落ちた携帯電話は何度も鳴り続け、高志からの着信履歴で埋まっていった。一体いつまでそうしていたかわからない。「ニャア」「……猫?」春花の左指をクンクンと鼻を擦り付けながら時折ペロペロと舐める猫。「……桐谷くん猫飼ってたんだ。君、慰めてくれるの? 優しいね」「ニャア」猫は人懐っこく春花に擦り寄り、撫でてほしいとばかりに頭をグリグリと寄せる。「ふふっ、可愛いね」春花は要求通り頭を撫でてやる。猫は気持ち良さそうに目を細めた。静が帰宅するとピアノルームから明かりが漏れており、不思議に思ってそっと中を覗く。中では春花が横たわっており、驚いて思わず声を上げそうになった。「春……」「ニャア」春花に包まれるようにして猫が顔を上げ、その心地良さそうな表情に二人で寝ていただけなのかとほっと胸を撫で下ろす。「まったく、驚かすなよ。ほら春花、こんなところで寝ると風邪ひく――」揺り動かそうとして、ハタと手が止まった。春花の目元は涙に濡れ、苦しそうな表情で眠っていたからだ。「ニャア」「お前、春花のこと慰めてたのか? 偉いな」静が撫でようとすると猫はその手をすっと避け、再び春花の胸元で丸くなる。「……おい、飼い主は俺だぞ」静は苦笑いしながら立ち上がると、別室から毛布を持ってきて二人に掛けてやった。コンコンと眠り続ける春花。固く握られた手。静はその手にそっと触れる。「……遅くなってごめん」小さく呟いた言葉は、猫だけが片耳をピクッと揺らして聞いていただけだった。
とても心地良い気分でスッキリと目覚めた春花は、あまりの爽やかさにうーんと大きく伸びをした。久しぶりにぐっすり寝たような、そんな気分だ。自分に掛けられている毛布を見て、ようやくここが静のマンションだったことを思い出した。「……ショパン?」耳を撫でるピアノの音に春花は顔を上げる。心地良い揺らぎはこのピアノの音だったのだろう。静は春花に気付くと、ニッコリ微笑んで演奏の手を止めた。「桐谷くんごめん、なんか寝ちゃって。ショパンだったよね?」「うん。春花がよく眠れるように」「すごくよく眠れたよ」「それならよかった。春花がつらそうに寝てたから」「ねえ、もしかして帰ってきてからずっと弾いていたの?」「春花の寝顔が可愛かったから、ずっと見ていたくて」「ええっ!」流された視線が予想外に甘くて、春花は思わず頬を赤らめながら目をそらす。それに、いつの間にか「山名」から「春花」へ呼び方が変化していることに動揺が走った。変に意識してしまったことに焦りを覚えるが、それに対して静は何も気にしていないようだ。「あ、あのさ、名前で呼ばれるとなんか恥ずかしいっていうか、ドキドキしちゃうっていうか……」ゴニョゴニョと静に訴えてみる。 静は立ち上がり春花の元に行くと、彼女を覗き込むようにして視線を合わせた。「な、なに?」「春花をドキドキさせてるんだ」微妙な距離がもどかしい。 お互いの呼吸音が聞こえ、毛布の擦れる音さえも大きく聞こえる。ドキドキと高鳴る鼓動が聞こえてしまうのではないかと思うほどの距離感は、まるでキスをするような感覚に似ている。近づく距離に反射的に目を閉じた。 と、その時。「ニャア」鳴き声にはっと我に返り、春花はほんの少し仰け反る。猫は春花の腕にグリグリと頭を擦り付けていた。「あ……」「こら、邪魔するなよ」静がため息混じりに猫を抱き上げると、猫は静の腕をするりと抜け、目を真ん丸にしながら床をあざとくゴロンゴロンと転がった。「……お前」「あ、猫。猫飼ってたんだね」「ああ、猫アレルギーじゃないよね?」「大丈夫。すごく人懐っこいね。名前、何て言うの」「……」「……?」静は開きかけた口を躊躇いがちに閉ざし、春花は不思議に思い首を傾げる。ふいと春花から視線をそらすと、ぼそりと呟いた。「……トロイメライ」「ニャア」静の言葉に反応
放課後の音楽室は傾き始めた太陽の日差しが燦々と降り注いで、室内をセピア色に染めていた。春花《はるか》は耳を研ぎ澄ます。隣に座る静《せい》と目配せをし呼吸を合わせ、指先に神経を集中させた。静のすうっという呼吸音を合図に指を動かす。ポロンポロンと柔らかいピアノの音色が教室に響き渡り、心地よい空間が生み出された。山名春花《やまなはるか》と桐谷静《きりたにせい》は高校三年生。一年のときから音楽部に所属している。二人ともピアノが得意で、合唱コンクールのときはどちらがピアノを担当するかでよく議論になった。「桐谷くんのピアノはすごいから」たいていは春花がそう結論付けて身を引いていたのだが、いつからか静も、「今回は山名の方が上手いと思う」と春花のピアノの腕を認めるようになっていた。もともと合唱に力を入れていた音楽部だったが、二人のピアノの実力を認めていた顧問は音楽部とは別に、連弾でコンクールに出場してみないかと提案した。ピアノコンクールは予選、本選、コンサートと一年がかりのイベントだ。当然予選を突破しなければ次へ進めないのだが、春花と静は毎日放課後に音楽室で練習に励んだ。高校三年生ともなると基本的に部活は夏の大会を最後に引退となる。そして受験モードへ移行していくわけなのだが、順調に予選を突破した二人は夏を過ぎても音楽室に入り浸っていた。
とても心地良い気分でスッキリと目覚めた春花は、あまりの爽やかさにうーんと大きく伸びをした。久しぶりにぐっすり寝たような、そんな気分だ。自分に掛けられている毛布を見て、ようやくここが静のマンションだったことを思い出した。「……ショパン?」耳を撫でるピアノの音に春花は顔を上げる。心地良い揺らぎはこのピアノの音だったのだろう。静は春花に気付くと、ニッコリ微笑んで演奏の手を止めた。「桐谷くんごめん、なんか寝ちゃって。ショパンだったよね?」「うん。春花がよく眠れるように」「すごくよく眠れたよ」「それならよかった。春花がつらそうに寝てたから」「ねえ、もしかして帰ってきてからずっと弾いていたの?」「春花の寝顔が可愛かったから、ずっと見ていたくて」「ええっ!」流された視線が予想外に甘くて、春花は思わず頬を赤らめながら目をそらす。それに、いつの間にか「山名」から「春花」へ呼び方が変化していることに動揺が走った。変に意識してしまったことに焦りを覚えるが、それに対して静は何も気にしていないようだ。「あ、あのさ、名前で呼ばれるとなんか恥ずかしいっていうか、ドキドキしちゃうっていうか……」ゴニョゴニョと静に訴えてみる。 静は立ち上がり春花の元に行くと、彼女を覗き込むようにして視線を合わせた。「な、なに?」「春花をドキドキさせてるんだ」微妙な距離がもどかしい。 お互いの呼吸音が聞こえ、毛布の擦れる音さえも大きく聞こえる。ドキドキと高鳴る鼓動が聞こえてしまうのではないかと思うほどの距離感は、まるでキスをするような感覚に似ている。近づく距離に反射的に目を閉じた。 と、その時。「ニャア」鳴き声にはっと我に返り、春花はほんの少し仰け反る。猫は春花の腕にグリグリと頭を擦り付けていた。「あ……」「こら、邪魔するなよ」静がため息混じりに猫を抱き上げると、猫は静の腕をするりと抜け、目を真ん丸にしながら床をあざとくゴロンゴロンと転がった。「……お前」「あ、猫。猫飼ってたんだね」「ああ、猫アレルギーじゃないよね?」「大丈夫。すごく人懐っこいね。名前、何て言うの」「……」「……?」静は開きかけた口を躊躇いがちに閉ざし、春花は不思議に思い首を傾げる。ふいと春花から視線をそらすと、ぼそりと呟いた。「……トロイメライ」「ニャア」静の言葉に反応
春花は何だか惨めな気分になり、泣きたくなった。と、突然携帯が鳴り出す。「もしもし?」『春花、何で出ていくんだ?』「高志……。あなたが出ていけって言ったじゃない」『そんなの嘘に決まってるだろ。春花を試したんだ。ああやって言えば春花は優しいから振り向いてくれると思った』何を言われても、高志の言葉は嘘にしか聞こえない。もう彼に振り回されるのはうんざりだ。「もうアパートの契約解除するから。あなたも出ていってね。私知らないから」『は? ちょっと待てお前何言ってんの? くそが、死ねよ』「もう私は死んだと思って。さよなら」春花は今まで出したことのない冷ややかな口調で告げ、乱暴に電話を切った。「はぁー」ほんの少し緊張が解け、その場にペタンとへたれこむ。手のひらから滑り落ちた携帯電話は何度も鳴り続け、高志からの着信履歴で埋まっていった。一体いつまでそうしていたかわからない。「ニャア」「……猫?」春花の左指をクンクンと鼻を擦り付けながら時折ペロペロと舐める猫。「……桐谷くん猫飼ってたんだ。君、慰めてくれるの? 優しいね」「ニャア」猫は人懐っこく春花に擦り寄り、撫でてほしいとばかりに頭をグリグリと寄せる。「ふふっ、可愛いね」春花は要求通り頭を撫でてやる。猫は気持ち良さそうに目を細めた。静が帰宅するとピアノルームから明かりが漏れており、不思議に思ってそっと中を覗く。中では春花が横たわっており、驚いて思わず声を上げそうになった。「春……」「ニャア」春花に包まれるようにして猫が顔を上げ、その心地良さそうな表情に二人で寝ていただけなのかとほっと胸を撫で下ろす。「まったく、驚かすなよ。ほら春花、こんなところで寝ると風邪ひく――」揺り動かそうとして、ハタと手が止まった。春花の目元は涙に濡れ、苦しそうな表情で眠っていたからだ。「ニャア」「お前、春花のこと慰めてたのか? 偉いな」静が撫でようとすると猫はその手をすっと避け、再び春花の胸元で丸くなる。「……おい、飼い主は俺だぞ」静は苦笑いしながら立ち上がると、別室から毛布を持ってきて二人に掛けてやった。コンコンと眠り続ける春花。固く握られた手。静はその手にそっと触れる。「……遅くなってごめん」小さく呟いた言葉は、猫だけが片耳をピクッと揺らして聞いていただけだった。
仕事が終わった春花は迷わず静のマンションへ帰った。渡された合鍵でエントランスの自動ドアを解除する。スッと音もなく開くドアは高級感に溢れており、エントランスの天井は高くクッション性の良さそうなソファーが優雅に出迎えてくれた。自分のアパートとは違う感覚は、春花の心を幾ばくか緊張させる。玄関のドアさえも重厚な造りで力を込めないと開かなかった。「た、ただいまぁ」遠慮がちに呼び掛けてみるも、部屋はしんと静まり返っていて人の気配はない。「お、お邪魔します」そろりそろりと入っていくと、ピアノルームの扉が開いていた。そっと中を覗くと自動で照明が点き、春花はわあっと声を上げた。部屋の真ん中に立派なグランドピアノが置いてある。照明が反射してキラキラと光っている様は、音楽室を彷彿とさせた。そっと蓋を開け鍵盤を弾くと、ポンと体の芯まで響いてくるような重厚な音が鳴った。「……トロイメライ」高校のとき静と連弾した曲を思い出し、春花は微笑む。まさかこんな形で静と再会するとは思っても見なかったが、昔と変わらない優しさは春花の心に安心感を与えている。本当は静と音大に行きたかった。静と一緒にピアノを弾きたかった。もしもあの時一緒に音大に進学できていたら、自分はどんな人生を歩んでいたのだろう。ピアノ講師としてかろうじてピアノは続けているが、静との実力は雲泥の差だ。
静のマンションには防音設備の整ったピアノ専用の部屋がある。その他にも二部屋あり、荷物を置かせて貰うだけでもありがたいというのに、静は春花に一部屋使って良いと開け放した。初め遠慮した春花だったが、マンションは職場からさほど遠くない位置にあり通勤にも困らない。下手にリビングに居座るよりも自分の部屋で静かに過ごすことの方が迷惑にならないのではと考えて、春花は次の家が決まるまでありがたくここに住まわせてもらうことにした。「俺は夕方から外出するけど」「あ、私も夕方から仕事なの」「ん、じゃあこれ渡しておくよ」差し出された手を両手で受ける。と、固くてひんやりとした感触に目を疑った。「こ、これ……」「うん。鍵」「だ、ダメだよ」「どうして? 鍵がないと困るだろ」「でも……」「自由に使っていい。俺は仕事の時間がバラバラだから」そのまま握らされ、合鍵に良い思い出のない春花は戸惑いながらも大事に受け取る。無機質なモノなのに、やけに心が騒がしいのはなぜなのか。ぽっと灯る柔らかな温もりはゆっくりと浸透していくように、春花の心を包み込んでいった。夕方、レッスンのために出勤した春花を見た葉月は眉根を寄せ、手招きしつつ春花を呼びつけた。「ちょっと山名さん、何だか顔色悪いけど大丈夫?」指摘され、春花は頬を両手で押さえる。昨晩高志にアパートを追い出されビジネスホテルに泊まったわけなのだが、全くといっていいほど眠ることができなかった。今朝は朝食もそこそこにアパートへ戻り荷物の整理をしていたのだ。昼食もとっていないことに今更ながら気づく。「あ、ちょっとプライベートでいろいろあって。すみません、仕事に迷惑かけて」「別に迷惑はかけられてないけど。これからレッスンよね、大丈夫?」「それは大丈夫です。それより店長、今度レッスン風景を見学したい方がいまして」「体験レッスン? いつも通りやってくれて構わないわよ。」「あ、じゃなくて、見学したいのは桐谷静さんなんですけど」春花の言葉に、葉月は作業中の手を止める。改めて春花と目を合わせると、不思議そうに首を傾げた。「……え? 桐谷静ってピアニストのじゃないわよね?」「はい、そのピアニストの」「……え、山名さんとどういう関係なの?」「実は高校のときの同級生なんです」「やだっ! 何でそれを早く言わないのー? もしかして一曲
どれくらい経った頃だろうか。ぼんやりとヘタりこんでいる春花の元に、静が息を切らしながらやってきたのは。「山名」名前を呼ばれて見上げれば、静が険しい顔で春花を覗き込む。「事情はだいたい理解した。まずは荷物を持って俺のところに避難しよう。ここは今月で契約解除すればいい」春花の腕を取って立ち上がらせようとするが、春花はフルフルと首を横に振る。「でもそうしたら高志が住めなくなる」「そんなの知ったことじゃないだろ? 今月末で退去の旨を知らせておくだけで十分だ。山名が責任を感じることはない。むしろ乗っ取られてるんだから訴えても良いくらいだ」「だけどこれは痴情のもつれというか」「山名」「夫婦喧嘩は犬をも食わないみたいな」「山名」「私がちゃんとしてなかったから」静がいくら呼び掛けても、自暴自棄になっている春花は答えようとしない。静はすうっと息を吸い込むと凛とした声で名前を呼んだ。「春花!」その声に、まるで時が止まったかのように静寂が訪れる。春花は目をぱちくりさせながら恐る恐る静に視線を合わせると、静はふと表情を緩めてから柔らかく春花を自分の胸に引き寄せた。「春花、落ち着け」「う、ううっ……」改めて名前を呼ばれ、春花の感情は大きく揺さぶられる。「昨日連絡先を聞いておいてよかったよ。春花は俺が守るから」静が抱きしめる腕の力が強まる。 暖かく包まれているうちに、春花の中にあった禍々しい感情がすっと落ち着いていくのがわかった。
ポロ、ポロ……と涙が溢れ落ちた。泣きたいわけじゃない。ただ悔しくてやりきれない想いが春花の心をぐちゃぐちゃにする。電子ピアノをスタンドから降ろしてカバーを付けソフトケースに入れる。両親が離婚して引っ越しをする際、ピアノを売ることになったあのときの気持ちとよく似ている。今回ピアノは売らないが、突然訪れた出来事に頭がついていかない。喪失感が春花を支配し、理解することを拒絶しているようだ。――ブブブ、ブブブ、突然携帯電話が震え出し、春花はビクッと肩を揺らした。恐る恐る手に取ると画面には【桐谷静】と表示されており、春花は涙を拭ってからそっと通話ボタンをタップする。「……もしもし」『山名? 昨日イヤリング落としてないか? 楽屋の忘れ物で届けられてたみたいなんだけど』「え? あ、うん」『山名?』「うん」『泣いてる?』「……ううん」『嘘だ』「……桐谷くん」穏やかで優しい静の声は春花の耳にたおやかに響き、やがて体全体へ浸透していく。その安心できる声に、一度止まった涙が再び溢れ出した。『どうした?』「うっうっ、桐谷くんどうしたらいいか……」『……山名、今どこにいる?』静の声色が緊迫したものに変わる。静にこんな話をしていいものかと一瞬躊躇ったが、それよりも今は誰かに話を聞いて貰いたいことの方が気持ちが大きい。春花は泣きながら現状を伝え、事実を口にするたび悔しさが込み上げてきて時々嗚咽が漏れた。『山名、ゆっくりでいい、落ち着いて』耳に響くその声はしっとりと優しく、すがりたい衝動に駆られた。
翌日、幸いにして夕方のレッスンまで仕事はない。春花は荷物をまとめるためにアパートへ戻った。そろりと鍵を開けると、そこはもぬけの殻だ。あんなモラハラ高志だが、彼は仕事にはちゃんと行くことを春花は知っていた。仕事中の高志の態度は全く知らないが、きちんと出勤するということは最低限のルールは守っているのだろう。「……はぁ。本当に意味がわからない」なぜ自分が出ていかなければならないのか。考えれば考えるほど理不尽でたまらないが、高志とこれ以上争う気は微塵も起きなかった。しかも高志は合鍵を持っているのだ。我が物顔で彼が入り浸る家には、もういたくない。だが、新しい家を探すにも日数が必要だし、なによりまとまったお金がないと動けない。「はぁー」ため息しか出てこない。 考えると高志に貢いでばかりだった。大企業勤めで寮暮らしをしている高志は、お金がないわけないのにいつも金欠だと言っていた。入った給料はスロットで使い果たし、春花にプレゼントひとつしたことはない。幸い銀行のカードは財布の中、パスワードは教えていない。まずは自分の財産に安堵し、荷物の整理を始めた。元々そんなに私物は多くなく、荷物くらい簡単にまとめられると思っていた。だが、いざ整理し始めるとどうしたらいいかわからなくなる。荷物が少ないといっても、さすがにカバンひとつでどうにかなるものでもない。「どうしよう」一日ですべてをこなすのは無理だ。夕方からはレッスンが入っている。それを休むわけにはいかない。春花はその場にペタンと座り込み、荷物を前にして途方にくれた。
足取り軽くアパートに戻った春花だったが、玄関を開けた瞬間に体が強張った。春花は電気を消した状態で外出したはずだが、部屋の明かりは煌々と灯り玄関には脱ぎ散らかした男物の靴がある。まさかと思っているうちに、奥から不機嫌そうな顔をした高志がのっそりと現れ、春花は一歩後退りをする。「……どういうこと?」「やっぱり浮気か」「何言ってるの?」「どこへ行っていた?」「コンサートだけど」「そんなお洒落していくかよ」高志は春花の服装を指摘する。今日の春花はフォーマルに近いワンピースにパンプス、そしてイヤリングを付け、髪は編み込みのアップスタイルでパールのついたバレッタを付けている。ピアノのコンサートだからといってドレスコードしなくてはいけない決まりはなく、カジュアルスタイルでもちろん入場できるのだが、静に会えるという気持ちで普段より服装に気を遣ったことは否めない。春花はバツが悪い気持ちになるが、そもそも高志とはもう恋人ではないのだから罪悪感を感じる必要はないのだ。春花は強い意思を胸に、高志を睨んだ。だがそれ以上に冷たい視線が春花を射ぬく。「……私たち別れたんだから、合鍵返して」「ああ、俺達別れたんだから、お前が出ていけよ」「え……待って。私の家だけど? あなたは寮があるじゃない」「はあー。二十八までしか入れないんだよね。だから結婚して寮を出ようと思ってたけど、お前にあんなこと言われちゃなぁ」「結婚?」「そう。春花と結婚しようと思って寮は解約した。だからここに住むことにした」「……何言ってるの? 意味がわからない」「春花は俺と結婚する気ないんだろ?」「ないよ」「だったらこの家は俺が住むから、お前が出ていけって話」「そんな……。だって、出てくにしても荷物とか」そういう問題ではないのだが、高志の強引で強気な態度に圧されて春花はどんどん弱気になっていく。高志は面倒くさそうに髪を掻き上げると、親指で部屋の奥を指差した。「確かにお前の荷物は邪魔だよな。じゃあ明日俺が帰るまでに荷物なくしておけよ。荷物があったら捨てる。お前がいたら追い出す。わかったか、くそ女」「え、ちょっと……」高志の勢いに圧され、春花はそのまま玄関を出た。と同時にガチャンとドアが閉められる。そしてあてつけかのように乱暴にチェーンが掛けられる音が聞こえた。閉じられた玄関の
「山名のピアノ、久しぶりに聴きたいな」「恥ずかしいよ。桐谷くんとは雲泥の差なんだから」「いいじゃん。ピアノの先生やってるんだろ? 今度見学に行かせてよ」「ええっ。うちの店に桐谷くんが来たら大騒ぎだよ」「なんで?」「なんでって、こんな有名なピアニストだもん。一曲弾いてほしいって皆が寄ってくるよ」「別に構わないけど」「ええっ、本当に?」「本当に」「きっと店長が両手を挙げて喜ぶよ」春花は、興奮して目をキラキラさせる葉月を想像して、一人クスクスと笑う。そんな春花に静は少し意地悪な笑みを浮かべた。「その代わり、山名のピアノ聴かせてよ。それが条件だ」「え、う、うん」ドキドキしながら頷くと、静は携帯電話を手にする。「じゃあ山名、連絡先交換しよう」「あ、そうだね」いそいそと春花も携帯電話を取り出し、二人は初めて連絡先を交換した。高校生のとき、初めて携帯電話を持った春花。静も同様に携帯電話を持っていた。だが二人とも友達とやり取りするよりも、家への連絡手段としての要素の方が大きかった。平日は毎日放課後に音楽室で過ごす。遅くまで二人でピアノを練習し、帰宅後にあえて連絡を取ろうとは思わなかった。もちろん、卒業前に連絡先を交換したいとは思っていたが、お互いに聞く勇気も機会も逃したまま今に至っている。あれからもう五年経っているのだ。お互いに社会での経験を積んで、ごく自然と連絡先の交換をすることができたことに静は安堵し、そして春花は胸をときめかせた。